劇場について

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劇場紹介

名前の由来

「北八劇場(きたはちげきじょう)」という名前は劇場が建つ地域と、劇場が生まれるに至った歴史的背景に想いを寄せ、明治、大正、昭和、平成、そして令和に至る、北海道開拓の歴史を感じさせる雰囲気をもたせました。「北八」という漢字には、末広がりの印象があり、劇場と札幌の街の発展への願いも込められています。

劇場について

客席は2フロアあり、見やすく座りやすい椅子で、ゆったりとご鑑賞いただけます。劇場の特徴は、演劇をはじめとする舞台芸術の上演をメインに考えて設計されていること。天井が高く、舞台前方(前方客席部分)は、張り出したり、変形させたりすることができる仕様となっています。

客席数226席
舞台間口10.9m 奥行6.0〜9.6m 高さ6m

演劇をはじめとする舞台芸術(ダンス、小規模コンサート、落語、映画上映など)の上演をメインにしながら、講演会やセミナー、ワークショップ、習い事の発表会など、様々な形での利用が可能です(一般貸出も行います)。地域コミュニティの場として活用することも検討しています。

詳細平面図、断面図、機材リスト、概要については以下ページでご確認ください

芸術監督

納谷 真大(なや まさとも)


俳優・演出家・劇作家。

札幌で活動する演劇ユニットELEVEN NINES(イレブンナイン)代表。

早稲田大学卒業後、富良野塾にて倉本聰氏に師事。
演劇企画集団ガジラ、秦建日子プロデュース、FICTION、OOPARTS等、様々な劇団に役者として参加。
2001年、処女戯曲作「EASY LIAR!」が『北の戯曲賞』優秀賞を受賞。同作品を上演し、初演出。
2004年、演劇ユニットイレブン☆ナインを結成。
2007年上演の「あっちこっち佐藤さん」はライフコート札幌舞台芸術賞演劇大賞を受賞。道内外で行っているワークショップも各方面から高い評価を受けている。
近年は、イレブンナイン、富良野GROUP、札幌座に主演する他、昼帯ドラマ『やすらぎの郷』(テレビ朝日)シリーズにもレギュラー出演。斎藤歩氏との創作の場も多く、更に活動の幅を広げている。公益財団法人北海道演劇財団 理事。

劇場支配人

伊藤 久幸(いとう ひさゆき)


1978年、(株)歌舞伎座内長谷川大道具に入社。退社以降はフリーの舞台監督として活動する。
おもな活動作品として、セゾン劇場のピーターブルック演出「カルメンの悲劇」「マハバーラタ」「桜の園」「テンペスト」。マールイドラマシアターの「兄弟姉妹」「夜明けの星たち」。リュビーモフ演出「ハムレット」。仲代達矢主宰の無名塾公演「令嬢ジュリー」「リチャード三世」「ハロルドとモード」など。また、幕張メッセ及び宮崎シーガイアの「オープニングセレモニー」の総合舞台監督を担当する。
1994年、(財)新国立劇場運営財団に入社。以降は新国立劇場の技術部として活動し、2007年から2016年まで同劇場の技術部長となる。
2016年4月より札幌文化芸術劇場の舞台技術担当部長として活動。2023年4月よりジョブキタ北八劇場支配人となる。

4つのビジョン

「民間劇場」だからできること──

それが魅力になります。

劇場での創作、各種公演、劇場管理、運営を通した人材のスキルアップを図ります。

観劇が札幌観光のコンテンツとなるり、劇場が、全国、世界の人々と出逢う窓となることを目指します。

地域住民、子どもたち、学生、観光客、ビジネスマン…「さつきた8・1」に継続的に人が出入りする流れを作り、街を元気にしていきます。

VISION
1

劇場のいろを出す魅力ある作品を創り、全国・世界へ演劇を発信します。

VISION
2

落語、コンサート、ダンス公演、講演会やセミナー、ワークショップ、発表会など様々な利用が可能です。地域コミュニティの場として活用することも検討しています。

VISION
3

札幌の劇団、全道、全国の劇団との共催公演を行います。他地域からの流れをつくり札幌の演劇シーンを盛り上げます。

VISION
4

多くの方々に、“劇場のある街”のすがた・価値が共有され、年1〜2作品のロングラン公演が可能な環境に成熟した劇場を目指しております。

ネーミングライツについて

劇場の運営団体である一般財団法人田中記念劇場財団は株式会社北海道アルバイト情報社様とネーミングライツ付与契約を締結いたしました。詳細は以下のリンクをご確認ください。

劇場名:ジョブキタ北八劇場
ネーミングライツ付与契約:2024年4月1日より

HISTORY─北八劇場はじまりの物語

田中記念劇場財団 理事長
田中 重明(たなか しげあき)

劇場建設については、多くの人との出会いの中で、近代都市の中核機能の一つとして求められ、必然的に導き出されたという側面もありますが、実現には北海道開拓の歴史にも絡んだ、私の高祖父と曾祖父のローカルな物語が後押しをしてくれたということもあるかもしれません。

土地の歴史

北海道に最初の鉄道が開通し、札幌駅が出来たのが明治13年。駅の北側については、北8条以北はしばらく原野のままだったとのことです。それが明治32年までには北15条までが区画整理され、民間への払い下げが始まりました。劇場のできる北8条西1丁目の土地は、曾祖父にあたる田中重兵衛(水戸藩士だったという)が明治初めに来道し、札幌での陶器度量衡販売などの事業に成功した後、明治35年に購入したものです。北側に隣接する北九条小学校の開校はその前年の明治34年なので、人々がその周りに住み始め、街に賑わいが出てきた頃と思われます。創成川の向かい側には明治21年に帝国製麻の工場が稼働始め、茨戸と札幌駅を結ぶ鉄道馬車が創成川沿いに走り、多くの商店が並びました(八条市場等)。そうした賑わいはみせたものの、街の発展という意味では札幌駅の南側との格差は歴然で、駅に北口の出来たのは昭和38年(明治でも大正でもなく昭和です)。長らく駅裏とも呼ばれ、駅前という立地を生かし切れていない地域でしたが、平成元年に国の合同庁舎が出来、平成18年には高層マンションが誕生するなど、駅前としての顔が順次整ってきたなか、札幌市から高度利用地区として指定されながらも最後まで難産だった北8西1地区の再開発事業も2024年春の完成を目指して現在工事が進められています。
120年前の曾祖父の投資はすぐに成果を出すことはありませんでしたが、ここに「劇場のある街」となって生かされるとすれば、結果としては良かったのではないかと思います。少し時間がかかりすぎた感はありますが、劇場についてはより長い時間軸で地域に愛される存在にしたいと思います。

明治の函館~小樽、そして令和の札幌に

高祖父に当たる大塚嘉久治は元彰義隊の隊士で、上野の山で敗れた後、榎本武揚率いる開陽丸で北海道に渡り、函館戦争を戦った人ですが、五稜郭陥落の時、榎本武揚が切腹しようとするのを素手で止めたという逸話が残っています。維新後は榎本の世話で開拓使に仕官しますが、その後榎本が払い下げを受けた小樽の広大な土地を管理する北辰社を任されます。その中で、嘉久治は小樽の街の賑わい作りにも尽力し、「稲穂座」という劇場、当時で言う芝居小屋を作ったということが最近わかりました。嘉久治は武勇もさることながら、若いころから唄や三味線も好きで、芝居小屋によく出入りしていたということなので、きっと劇場のもつ役割をよくわかっていたのでしょう。明治26年の開業で、小樽でも最も古い劇場の一つです。途中大黒座と名前を変えながらも、大正4年まで存続しました。当時の小樽の賑わい、文化度は札幌をも凌ぐものだったと思います。「稲穂座」という劇場名を継がないまでも、明治の芝居小屋のワクワク感を令和の札幌駅北口の劇場に再現できれば面白いと思います。
ちなみに、曾祖父・田中重兵衛と高祖父・大塚嘉久治は、共に天保14年(1843)の生まれで同じ歳。奇遇です。両者を結んだのは、曾祖父の長男と高祖父の孫娘の婚姻ですが、それは二人とも他界した後のことです。戊辰戦争を戦い、維新後の世界には素直に馴染めなかった嘉久治と明治の代で実業家として腕を振るった重兵衛とでは価値観も違っていたと思うのですが、人も少なかった明治の小樽や札幌の街のこと、両者の出会いはなかったのでしょうか。それを示唆する史料は見つかっていませんが、いずれにせよ1世紀の時をゆうに超えた令和の世で二つの物語が再び交わって新しい劇場に結実したのだとすれば、これから先の物語を紡ぐのは私たちなのだと思います。